稀代のイケメンかダメ男か?太宰治と「人間失格」
現在公開中の映画、「人間失格 太宰治と3人の女」。太宰の代表作として名高い「人間失格」と作家の太宰自身を蜷川実花監督が独自の世界観で描き、話題となっています。あなたはこの小説を読んだことがあるでしょうか?今一度この作品を手に取ってみたら……。
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ライター
「失敗するのが怖い子どもたち」今の時代にも通じる太宰のコンプレックス
10代の頃に読んだきりの「人間失格」を、まっさらな気持ちで読み直してみました。私が読んだ初・太宰作品は「斜陽」、女性の一人称で語られる物語です。崩壊していく家族と既婚男性への恋が描かれていますが、そんな中でも主人公に揺らぎのない清らかさを感じて当時泣いてしまったことを覚えています。そして、その後3冊目ぐらいに「人間失格」を読んで、「ああ、太宰治という人は女性をバカにしているんだな」と心からがっかりした記憶が。
そんな風に、どう考えてもダメ男なのに、多くの女性の心をとらえて離さない太宰という作家と自伝的小説「人間失格」。
地方の名士の末息子である主人公は、子どもの頃から心が汚れた自分を自覚し恥と感じながらも、周囲の人たちの笑いをとる道化師役を演じて生きています。お調子者の愛されキャラをねらって、ねらいどおりの印象を家族をはじめ関わる人みんなに植えつけることに成功している。たったひとり、主人公の本質を見抜いたのがひとりのクラスメイトなのですが、鉄棒にわざと失敗してみせて……というのは有名なくだりですね。
共感はできないけれど理解はできる、と思ったのが、主人公の置かれている立場です。長男に生まれていれば「自分はこの家を継ぐ人間。しっかりしなくては!」と考え、また違うアプローチを選択したかもしれません。末っ子が担う役割は、家庭内では愛されること。そして、外に出ては優秀であることです(書いていてつらくなってきました。そういえば、私もそうだったような……)。資産家・政治家である厳格な父の怒りに触れるようなことがあっては、生きていけません。
「父の期待に応えなければ……でも、俺はそんなできた人間じゃない!」というプレッシャーは、じわじわと主人公の心を闇へ闇へといざないます。父の期待に応えるためにも、できた息子・愛される人間でいなくてはいけない。家を離れて自由を手にし、金銭に苦しむようになると「そうは言っても、俺はそんなできた人間じゃないし!」という気持ちの方が大きく膨れ上がって、行動に表れるように。
「親や先生の期待に応えたい。失敗するのが怖い」
こういう気持ちが肥大しすぎて本人を苦しめる状況は、今の子どもや若い世代の人たちにもあてはまるような気がします。ちょっとしたことが大事件で、傷ついて、挑戦することが怖くてたまらない。それはなんだか窮屈で、可哀そうに思えます。
愛情と甘えの裏返し 太宰と女たち
主人公は自分が「女性にモテる」ことを自覚しており、女性たちが自分のために嬉々として尽くすことを冷ややかに見つめています。主人公にとって、女性は恐怖の対象。「怒らせたら怖い」と思っているのです。それで一生懸命ご機嫌をとるのですが、注がれる愛情に愛情で応えることができないので、破局や心中未遂、悲劇が繰り返されるだけ。
女性に対しても主人公は、「女性の期待に応えなければ……でも、俺はそんな善良な人間じゃない!」という自作自演のプレッシャーでがんじがらめに。自分はダメだと言っているわりには、女性には徹底して「聖女」であることを求めるのも腹立たしいところ。結局、ダメ人間・ダメ男である自分に自己陶酔しているだけなんですよね。
だめな自分を認めること。特別に優れた人間じゃなくても、人は愛してくれること。そして、装わずに人と向き合うことが、主人公には理解できないのです。
作品の終盤。悲惨な結末にも思える終の棲家で、ようやく主人公は装うことを止められるように。実際の太宰は、逃げて逃げて逃げてやっぱり最後には心中で命を落としていますが、どうしてもそれを美学であるとは思えません。当時の、デカダンスがカッコイイとされていた風潮も知っていますが、それでも。狂言自殺をくり返して最後には本当に死んでしまった身内が私にもいますが、残された者は泥くさくてもカッコ悪くても、生きるしかない。
太宰が天才的な作家であったからこそ退廃に逃げこまず、自分が恵まれていたこと、愛されていたことを受け入れて、また違う世界を切り拓いてほしかった。そう思わずにはいられません。
『人間失格』太宰治
初出:『展望』1948年 6月号~8月号
初版:筑摩書房 1948年 7月
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