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本日から複業フリーランスについて、毎月コラムを執筆させてもらうことになりましたPRプランナーの井上千絵です。初めましての方がほとんどかと思いますので、初回は私の大学卒業後の地方テレビ局就職から、なぜいま、複業フリーランスという道を歩み始めたのかについて、包み隠さずお話できたらと思います。

そして、「副業/複業」というキーワードを耳にすることが多くなってきた昨今ですが、この「複業フリーランス」は決して特別な選択ではなく、誰もがありえる選択肢の一つ=自分ゴトとして読んでいただけたら嬉しいです。

子どものころから夢だったテレビ局に就職!がむしゃらに仕事にのめり込んだ20代

最近の20代学生を見ていると、仕事のことだけでなく、自身のライフスタイルについても比較的長いスパンで考えた上で就職先を選ぶ印象が強く、しっかりしているな、と関心します。というのも私の20代は、全くそんな発想はゼロでした。


小学生の頃からワイドショーを食いつくように見ていたミーハーの極みだった私は、「テレビ局でニュースの仕事に携わりたい」という憧れ一心で全国のテレビ局へ就職活動を展開し、民放の地方局で念願の報道記者として社会人をスタートしました。

社会人なりたての当時は、初めての地方一人暮らしに戸惑いながらも、報道記者という仕事の魅力にどっぷりと浸かり、プライベートはそっちのけで、何よりも仕事時間を最優先したいと考えていました。言い換えると、今後のキャリアについての迷いは一切なく、今思えば、迷う暇もなかったのかもしれませんが(笑)、とにかくがむしゃらに日々のニュースの仕事にのめりこんでいました。


一方で、子供や家族との時間、プライベートの時間を大切にしている上司や同僚を見ると、「この人は仕事への本気度が足りないんじゃないか」とさえ思っている私がいました。今考えると、当時の自分は、あまりに理解が足りなかったと思うのですが、それほどまでに仕事しか考えられない20代を過ごしていました。


そんな私も30代を目前に、プライベートのことを真剣に考えるきっかけが訪れました。

仕事を”やりきった”実感 結婚・出産を経て「働き方」に関する意識が変化

プライベートについて立ち止まって考えることになったのは、2011年の東日本大震災での取材活動でした。震災発生の翌日から宮城県、岩手県の沿岸部へ向かい、被災地で取材をさせてもらったのですが、その中で「家族」という存在、繋がりの大きさについて、私自身強く考えることになりました。「私自身は、この先の人生を、どんな家族と共に生きていくんだろう」と。


そして2014年、今の夫と結婚・出産してからというもの、私の中で、はっきりとしたマインドチェンジが起こりました。 具体的には2つあるのですが、1つ目はテレビの仕事に対して「やり切った」というマインドチェンジ。2つ目はプライベートに対して、娘との時間を何よりも大切にしていきたい、というマインドチェンジです。


一つ目の「仕事をやり切った」マインドチェンジについてなのですが、出産を前にして、産後の職場復帰後、私はテレビ局でどんな挑戦をしていきたいのか改めて自問自答していたんです。産休で時間がたくさん出来たから、自分について深く考えることになったのかもしれません。そして、社会人になる時に書いた目標ノートのようなものを探し出して、見返してみることにしました。 そこに書いてあったことが2つ。


<尊敬しているニュースキャスターの長野智子さんといつかお仕事をする>
<日本のニュース番組の代表的存在である「報道ステーション」で仕事をすること>


これを見て、あれ?もう夢が現実になっているんだ、ということに気付いて。その上で、次にどんな挑戦をしよう、と改めて考えて見た時に、すぐに答えが出せない自分がいました。出産後の自分の働く姿が全くリアルに想像出来ない中で、猛烈に何かにチャレンジしたい、という思いも湧き上がってこなかったんです。


二つ目のプライベートに対するマインドチェンジについて。 これは明らかに出産前は想像だにしなかった変化なのですが、これまでは当たり前に「仕事が最優先」だった私から、産後は「娘との時間を最優先」に今後の人生設計をしていきたい、と考えるようにシフトしました。私のストイックな働き方を知っている同僚からは、「雰囲気がまるくなったね」とか「母親になって変わったね」と言われることもしばしばあって。それほど、出産というライフイベントは自身に変化を与える強いエネルギーを持っているんだと思います。

これら2つの大きなマインドチェンジによって、「テレビ局で働く私」よりも「娘との時間を大切にしながら、新たな働き方に挑戦する私」を想像して、次第にワクワクしていく自分がいました。


同時に私が強く感じたことがあって、それは、社会人1年目でノートに記した夢を現実にできたのは、自分の功績でも何でもなくて、会社のお陰なんだ、ということです。会社が私を成長させてくれた、会社が私に大きな挑戦をさせてくれた、そこに対しての感謝の気持ちを忘れちゃいけないな、と。

綺麗事とかではなく、だからこそ、退職しても、その会社に恥じることがない人生を歩もう、と強く決意することに繋がりました。これだけ10年近くお世話になった会社を退職するにあたって何も返せていないけれど、唯一私が感謝の気持ちを表す方法は、これからの人生も真摯に全力で生きることなんじゃないかな、と。

”複業フリーランス“という新たな挑戦 組織に所属しているからこそできること

2017年春、娘が1歳の頃に、これまでのテレビ局の経験を活かす新たなチャレンジとして、フリーランスのPRプランナーとして活動を始めました。今年からはPR会社にも入社し、会社員×フリーランスという新たな働き方「複業フリーランス」に挑戦しています。


PR会社とフリーランスそれぞれでクライアントを持ち、1週間のうち3:7くらいの割合でフリーランスと会社員の仕事を時間刻みで回しています。一見してフリーランスも会社員も、肩書きが違うだけで、仕事としては変わらないように見えるかもしれませんが、私にとっては、全く違うものです。


何が違うのかというと、「安全基地」があるのかどうか、だと私は思っています。会社員としての私は、社長をはじめ上司、同僚という存在に囲まれたチームの一員として、困った時は支えてもらい、逆に同僚が困っている時はサポートさせてもらいます(実際は、まだまだサポートしてもらうことが圧倒的に多いのですが)。また、仕事でパフォーマンスを上げられた時もあれば、イマイチで反省する時もあるのですが、ありがたいことに毎月決まったお給料をいただきます。



一方フリーランスの私は、頼れるスタッフに支えてもらっているものの、クライアントからの仕事依頼が途絶えれば、明日から報酬はゼロになる可能性は常にありますし、困った時に誰かが助けてくれる、という安心感は一切なく、一匹オオカミのような感覚です。


ここまでで、フリーランスと会社員の私の中の違いについて、何となく伝わったでしょうか。実は、この会社員という「安全基地」の存在があるからこそ、複業フリーランスという最高の挑戦環境を生み出してくれている、と感じています。

というのも、フリーランス一本でPRプランナーをしていた1年間は、メンタルの安定やモチベーションの維持が難しいと感じる場面が幾度となくありました。事業がうまくいっている時は良いのですが、特にスタートしたばかりの頃は、PRの仕事で大きな壁にぶち当たった時、その解決策がすぐに見出せず、一旦行動も止まってしまう。そして、そんな自分に焦ってしまったり。

でも今は、会社員という「安全基地」のおかげで、フリーランス一本の時とは明らかに違う新たな挑戦を続けることが出来たり、失敗を恐れない自分がいます。


この春から立ち上げたPRを継続的に伴走するコミュニティ「ハッシン会議」もその一つですし、今秋には新たなメディアの立ち上げも予定しています。これらのことは、やはり「安全基地」があるからこそ、PRプランナーとしての枠を超えた未知なる自分への挑戦が出来るのだと思っています。

次回の予告

とここまで書いてみると、随分スムーズにキャリアを積み重ねてきたんだ、と思われがちですが、実際は全くそんなことはありません。そもそも、PRで独立しよう!とすぐに結論が出たわけではなく、出産後はただ漠然と「新しい挑戦を新しい働き方で」と考えるに止まっていたんです。


何をどうしたいのか、が具体的にわからないモヤモヤ状態が続いている時は、ポジティブな私にしては珍しく相当悩んでいました。PRで独立に至るまでには迷走、葛藤、紆余曲折がありました。

そんな私の心の霧を少しずつ晴らしてくれた転換点が、出産後に進学した大学院でした。次回のコラムでは、大学院入学からPRで独立、複業スタイルになるまで、私自身が意識的に取り組んだアクションについてお伝えしたいと思います。



井上千絵 プロフィール(PRプランナー)
大学卒業後、テレビ局に入社。報道記者を9年間、宣伝・広報を2年担当し、出産を機に退職。その後、慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)で2年間学ぶ。在学中にPRプランナーとして独立し、現在はPR会社の社員としての顔ももち、「複業フリーランス」というスタイルで活躍している。


井上千絵さんのHP INOmedia